華岡青洲先生と徳善堂の関係
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今井玄周

善堂(店主:今井)の先祖に今井玄周(?〜1878)という医者がおりました。華岡青洲先生は「今井玄周? 知らんなー」とおっしゃることでしょう。なぜなら今井玄周が医学を勉強したのは没年から察して華岡青洲先生の死後(1835)だからです。

青嚢秘録 かし、今井玄周の方は華岡青洲先生の話を門弟が書き残した『青嚢秘録』という書物を所持しておりました。かつては本家に医書が随分あったらしいのですが今は残っておりません。『青嚢秘録』も現物は本家の建て替えの際に紛失してしまったようで、誠に惜しいことをしました。ここに載せたものはそのコピーの最初と最後のページをパソコンで処理して綺麗にしたものです。


徳善堂の柱 嚢秘録』という書物は今ではなかなかお目にかかることが出来ないものです。江戸時代の終わりから明治初期の時代に、玄周がこの書物を手にしていたということは華岡青洲先生の弟子(京都の高階先生とは門人姓名録にある伏見の高階兵馬先生?)の弟子の弟子?「なーんだ、それだけのことで華岡先生の弟子のようなことを言っているのか。」と言われそうですが、何とか病人さんに良くなってもらいたいという気持ちを著した華岡青洲先生の漢詩を徳善堂の先代が大そう気に入ったもので、これも『青嚢秘録』がご縁。漢詩に詠われた華岡青洲先生の気持ちは徳善堂の柱です。